コンテンツへスキップ
何度もお話をしていますが
こころの成長について
特別な修行を
必要とするものではありません
必要であれば
神さまからのお導きがあります
最後に
因果を克服しながら
理解をした
その先には
ひと助けをすることを
しなければなりません
これも前述の考え方を
照らし合わせれば
わかるように
お釈迦さまやキリストは
実は過去世において
何世代もの因果の克服を経て
現世において仏や神となっているのです
お釈迦様やキリストが
それでも現世で
過酷な修練をしたのは
自らの心の修練よりも
むしろそれはひと助けのために
万人のこころに影響を
あたえるためにした
教えとするものなのです
ただ無理をして
その人の因果の道に
反した行いをしても
それは無駄に終わり
ただただ煩悩として
悩み続けるだけなのです
そしてこのように思います
「こんなにがんばっているのに
なぜなのだろうと・・・・」
なにがしたいのか
どうなりたいのかを
知らないと間違えた
道へと進みます
因果を
理解せずに
ひとと違うように
なりたいがために
修行僧や修験者のように
特別なこととして
荒行を課す理由は
キリストや仏陀の
影響が強いものと感じますが
その行いは
誰もがみな
必ずしも必要であるとは
かぎりません
ひとは
皆それぞれの
こころに神さまが
宿っているために
その神さまは
他人のことを
細かく指図して
教えるものでもありません
そして
こころに宿る神さまは
その人を不安にさせることも
絶対にありません
こころの成長のためには
修行をしなければ
ならないと考えて
しまいがちですが
自らの意思で
特別な修行を
必要と思わないものは
他者の意思をもって
するべきものではありません
自らの意思でするものは
こころの成長に
理由があっての必然であり
それは過去世の
因果によって生まれる前での
約束事によるお導きです
因果の多くは
ひとを傷つけてきた
ことの報いです
これが因果応報です
だからこそ
ひとを
助けてゆかなければ
ならないのです
※ひとをたすけるとは
つぎのテーマで教えます
われわれは
過去世より続く
因果を克服するために
こころが成長をするために
いま存在しているのです
すべてが過去世における
自らの行いの
結果として
受入れてください
宿命とは
通常は「運命」と
ほぼ同じとして
「宿命」が使われますが
ふたつを分けて考えた場合では
「運命」は努力次第で
変えることができるもの
前述の 「宿命」は
生きているものが
必ず死ぬように
変えることのできない
絶対的なもの と
されていることが
ほとんどである
※「因果とは」を参照
- 運命は
変えられるとは
運命は神さまが
決めるものだが
それはその
ひとのこころの
成長次第で
神さまは判断をし
そのひとに
必要なこととして
更なる
こころを成長させるために
運命を変えてくれるのです
error: Content is protected !!